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2000年1月31日
◆《個性のコスト》

 せっかく infoseek のチャンネルリンク集に登録されたのだから、この機会にと思ってサイトのあちこちを整備した。ホームページのアニメーションも少し変更して、下の子にも名乗りを上げてもらった。(ためしてねン(^^;)

 「ご案内」のページもプロフィールなどを変更。上の子の何ヶ月めかでのサイズを書いていたのを削除した。
 作業をしながらふと考える。
 彼女はここまで、つねに母子手帳に載っている成長曲線を上にはみだしながら、順調に成長してきた。両親ともにそういう規格の遺伝子を持っているらしいので、予想どおりといえばそうである。
 だが、これからいろいろ苦労はするだろうな……。

 子持ちになってみると、子どもの身体的な特徴が、コンプレックスの対象になるべきではないというのを実感する。いや、痛感する。
 頭の形も大きさも首の太さも胸も腹も腕のまわりも手のひらもお尻の形も太股もふくらはぎも足首も足のサイズも、その子がもって生まれた個性なのである。指先や爪の形もそう、もちろん顔つきや声にだって、個性がある。すべてが尊重されるべきもので、恥じるものなどなに一つない。みんなと一緒でも、違っていても、彼女なり彼なりが気に病む必要はどこにもないのだ。

 実際、そういったことに屈託のない子どもを見ていると、親のほうが自分のコンプレックスを恥じる気分にさえなる。

 服もそうだが、それよりも靴のサイズには苦労してきた。早くから大きくなった上にいわゆる甲高幅広で、ものごころついたときから店先で最初に気に入った靴をはけたためしがない。何度かそういう体験をすると靴屋にいくこと自体が嫌いになるし、いつの間にかコンプレックスになっていく。
 靴屋に悪気がないのはわかっている。平均的なものほど数や種類が豊富なのは仕方のないことで、要するに、個性にはコストがかかるということなのだろう。それは靴にかぎったことでもない。
 ただ、靴屋以上にわたしにも、わたしを生んでくれた両親にも悪気はない。はきたい靴がはけないと寂しく悲しいし、コストがどうであれ、そこで切られてしまうと困るのだ。

 そういう思いを持ってきたせいか、コストダウンを熱く語られるほど冷めてしまう部分がわたしにはある。それは生産や流通を通じて大きな尺度で人間の生活を考える手段の一つであって、個人を幸福にするための発想とはかぎらないのだ。高くなるから色つきのパソコンは作らない、のではなく、どうやったら色つきのパソコンを安く作れるのかと考えると、売れることもあるわけで。

 ……などと言ってみたところで、やっぱり娘も靴には苦労するのだろう。そう思うと不憫でならない。


■《最近のことば》■

 『あながあいてるから……』
 お風呂のときにウンチマンというパターンが、最近二度あった。長い間なかったのに、今ごろヘンな癖にならないといいのだけれど。
 だいたいは様子でわかるのだが、先にトイレにいきなさいといってもそれはやっぱりダメなのである。
 最近の一回目は妻と入ったときだった。下から「オマルもってきて〜」という声がしたのだ。トイレは風呂場の向いにあるのだが冷え込みのきつい日だったので、風呂場でオマルを使ったほうがいいだろうという判断だった。なるほど。
 で、昨日が二回目。今度はわたしと入っていた。やっぱりオマルの出前を頼んで、なんとか事なきを得た。
 といって、そのままでもいけないと思ったのか、おばあちゃんが先にあがったむすめをつかまえて「ちゃんとお便所でせなあかんよ」と諭すと、
 「でもね、あながあいてるからね、おふろにはいっておゆがあたったら、うんちまんがでたいよ〜っていうんだよ」
 とのこと。「それでね、わきちゃんのあなはね、ちっちゃいの」だそうだ。(1Carrot,2Stick)(2000.1.24)


▲《最近のとくいわざ》▼

 ☆おばあちゃんの魔法☆
 とにかく、おばあちゃんが抱くと赤ちゃんが眠る。あれはなぜだろう? 愛情のキャリアが違うのだろうか。
 あんまり言うと、あっちゃんが「おばあちゃんは、まじょになったの?」とききにいった。(2Carrot) (2000.1.24)