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ああ、少々のことは気にならない、ごつい神経が欲しい。
最近、人からのちょっとした言葉にどうしようもなく腹を立てたり、落ち込んでしまうことがちょいちょいとある。必要以上に過敏になっている(疲れている?)のか、それとも相手が無神経なのか。自分では後者だと感じるが、決めつけてしまうつもりにもならない。
育児絡みではとりあえず二件。一つは、子どもが風邪をひいたことを伝えきいた友人の言葉で「風邪ひいたのか。……体弱いのか?」という、たったそれだけのもの。実際にはベタベタの大阪弁である。他の用件でかけた電話での話だ。一瞬、脳がその質問を受けつけず「誰? オレ?」などと聞き返してしまったが、「いや、子ども子ども」という友人の答え。まじめな質問なのである。「強いよ。かなり強い」「そうか」で終わる。実際、鼻風邪はしょっちゅうひくが、高熱は去年一年で一、二回、それ以外の病気はしたことがなかった。強いといってもいいだろう。
ホントにたったそれだけのことなのに、電話を切 ったあとむしょうに腹が立ってきた。弱かろうが強かろうが、だからなんなんだ? 当たり前の話だが、鼻風邪一つでもひかせたくてひかせるわけではない。親であれば、もしもわが子が弱ければ、強くしたいとしか思っていないだろう。どう解釈しても不快になるしかない質問のようにわたしには思われた。
……思われたが、そんな分析をしている自分を好きにもなれない。むしろ卑しいことをしているような気分になる。なぜだ?
ああ、少々のことは気にならない、ごつい神経が欲しい。
もう一つは、このサイトについての「なかなか手が込んでますね。これも愛情でしょうか・・・」というメール。見た瞬間、目が点というか、横面を張り倒されたような気分になってしまった。
たしかに、育児がらみのサイトであるというだけで嫌悪感を持つ人さえ、世の中にはいることだろう。この程度の言葉を投げられてどうこう言っていても仕方ないのかもしれない。ただ、反感なら反感であるとわかればいいのだが、このメールはリンクの許可を尋ねてくれたものだった。おそらくは悪気のない言葉なのだ。返事をしなくてはならない。
……しかしいくら文字を眺めていても、共感は見えてこない。「これも」というのが、標準が別にあってそれに照らすとあんたは例外的だが、という意味にしかとれないのだ。そのように思われること自体は一向にかまわないのだが、それをそのまま突きつけられてもどうにも反応のしようがなかった。
たとえば手編みのセーターを着た子どもの母親にむかって、「手の込んだセーターですね。これも愛情でしょうか?」などという言い方をするのは相当に失礼だろうと、わたしは思う。似たようなものだろう。もっともサイトに手を入れるのは、セーターを編むような子どものための作業ではなくて、大半がわざわざ見に来てくれる人が楽しめればと思ってすることだが。
いくら考えても、不愉快であることをはっきり言うか、笑ってごまかすかというぐらいしか浮かんでこなかった。わたしは後者を選んだ。
情けない話だが、たったそれだけをまとめるために一晩眠れなくなってしまった。その状況に、落ち込むと同時に腹が立って仕方がなかった。おつきあいを続けることでそれ以上疲れたくはなかったので、リンクは自由だが、気に入ったサイトを選ばれるほうがいいとだけ書き添えたのだが……。
そんなことをしても少しも楽しくはない。
ああ、少々のことは気にならない、ごつい神経が欲しい。
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