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2000年4月20日(木)
◆《「恋愛小説家」As Good As It Gets》

 今朝は「もう、おうちえん(幼稚園)にはいっぱいいったから、もうたくさん」という言葉で始まった。
「そうか。しゃあないなぁ、でもパパは今日は怖い声はださないよ」
「でも、せんせいがだすよ」
「えっ、先生が? 怖い声をだすの? なんて言うの?」
「『おかたづけをしなさい!』っていいはるよ」
 言い方と表情まで真似するので思わず笑ってしまった。
「そうかぁ、でもそれはみんながおかたづけしないからやろ?」
「うん」
「なら仕方ないなぁ」

 ……などと言いながらも、結局ほとんど泣かずに行きました。お気づかいいただいたみなさん、どうもありがとうございます。まぁぼちぼちと、というところです。
 ただし鼻水流して帰ってきました。おーまいがっ、風邪はしばらく勘弁してほしいぞ。

 一週間ほど前のこと。上の子は幼稚園の疲れのせいか、そして下の子とわたしの母はたぶん風邪薬のせいで、そろって夜の八時過ぎには寝入ってしまった。突然訪れた夫婦だけの静かな夜。他のことも考えないではなかったが、今夜は映画だ!とばかりに「恋愛小説家」(As Good As It Gets)を観た。

 スペックはリンク先などにゆずるとして……
 主人公の小説家メルビンは歯に衣着せぬ毒舌家で、愛する女性と過ごすのにもその口が災いしてしまう。少なくとも彼女に対してはもっと好感を持たれるような自分でありたいという健気な思いを持ちながら、なかなかうまくいかないのだ。そんな彼を見ていると、じれったいような気持ちになるのと同時に、毒舌というのも自分の考えや感じ方を偽りなく表現した結果の一つにすぎないのだという気がしてくる。

 会話でも文章でも、何かを表現しようとするときにそこに自分としてのこだわりを偽りなく込めれば込めるほど、受け入れてもらえるときと拒絶されるときとの落差が大きくなるものだ。無用な反感を避けるためにそれなりの配慮をするとしても、どこかで覚悟をきめてアウトプットするしかない。

 映画の話から少しそれるかもしれないが、たとえば web ページに書いたものを曝すことにも、そのあたりの覚悟はつきまとう。
 先日、日記の中で「パパの子なんだから、〜ができるはずだ」的な言い方を子どもにしていることを書いた。子どもにとってその言葉に見合うような父親でいられたらという努力目標のようなもので、そんなことを考えた自分の記録として書きとめておきたかった。ただ、毒舌ではないにしても思い上がった匂いのする表現なので、おまえは何様のつもりだと感じる人もいるかもしれないし、そんなふうに言われて育ったことが重荷だったと、ある種の忌まわしさを思い出す人もいるかもしれない。また鼻につくと思われて、それ以上読んでもらえなくなることもあるだろう。それも仕方ないと、それなりの覚悟をきめたわけである。

 時間があればそんなふうにあれこれと考えることもできる。しかし愛する女性を前にした一瞬一瞬では自分だけのとんでもない想像まで口走ってしまったりするメルビンに、なんともいえない共感を覚えたりした。淀川さんは辛口だけれど、やっぱりいい映画だろう。