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2000年6月18日(日)
◆《父の日》
『親や教師や大人たちが、自分たちの思い通りに子どもを育てれば、子どもたちは他者の思い通りにしか行動できない人間になる……』

 書家の相田みつをと精神科医の佐々木正美による「育てたように子は育つ」(小学館)という本の中ほどにある文章。一年ほど前、立ち読みでパラパラっとめくったページにあったこの文章が妙にひっかかった。
 当時は、妻が下の子を妊娠したことで上の子と接することがだんだんと増え、こまごましたことにまで口を出すことも増えてきた時期だった。だっこなど、妻の体の負担になることはガマンさせなくてはならないし、一方で絵本やおもちゃを選んだりといったことも多くなり、その都度頭を悩ませていた。
 要は、子どもの成長にともなっていろいろな判断を下す機会が増えてきていたということだ。そして、少なくともわが家では父親の判断は最終的な効力を持ったものになる場合が多かった。

 問題は、禁止や約束をやぶったときだった。たとえば、ごはんの前におやつを食べたいといってどうしてもきかない場合、今日だけということで認めたとする。でもそれが今日だけになるはずはない。なら翌日も同じことを言った場合にどうするかだが、断固拒否もありだし、もう一度今日だけというのもありだし、そんなにいうのならもういいやと根負けしてしまう場合もありだろう。たいていの場合、大人の習慣に合わないことについては最初は禁止をいうわけで、そのあとはこちらのほうがどこまで譲歩するかという形になってしまうのだった。

 そういったことを漫然と繰り返していると、宝物であったはずのわが子がいつの間にか「少しも親の言うことをきかない子」になっていた。すると、最後の砦の父親としてはもう少しキッパリと禁止したほうがいいのか、あるいは認めることははなから完全に自由にさせてやったほうがいいのか、などという0か1か的な価値観をあてはめようとしてくる。そしていくら考えてもそういった極端なアプローチの是非に自信の持てるはずがなかった。たとえば昔の時代の父子関係や家族関係を想像して、それでもそれなりに育つものなのだろうぐらいに思うほかなかった。

 上の文章を読んだのは、そういったことを漠然と考えていた時期だった。深い解釈はさておき、とにかく肩の力が抜けたような気がした。
 それと同時に、これはシツケがどうこうという次元の話ではないのだろうということも思った。さらに読むと、人生の最初の時期には自分の存在を完全に肯定してくれる無条件の愛情に恵まれるべきだ、という表現が何度も出てくる。なるほど、そういう愛情をお互いに認めた上のことなのだな、シツケ云々というのは……などと合点していた。

 ふと、わたし自身の父のことを思うと、そういう愛情表現のなんとヘタクソであったことだろう……! しかしそれが単にヘタクソなだけのことだったと思えるようになるのは、子どももそこそこ成長してからのことなのだ。たとえば今日のような「父の日」に、酒でも飲みながらぼんやり考えたりするわけである。

♪ with "Oasis" / Roberta Flack