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写真の整理をしていて使おうと思ったまま忘れていたものを見つけた。なにやら謎めいた記号のようにも見えるが、実は上の子が初めて自分で自分の名前を書いたものだ。形を認識していく過程が目に見えるようでおもしろい。似た感じを表現するためには手段を選ばないという雰囲気が気に入っている。
PAPIさんの日記の8月1日分でお子さんのお名前について書かれていて、いい話だなぁと思った。五人六人と兄弟がいればまた違うのかもしれないが、やはり最初の子どもに名前をつけるのは、親にとってもいろいろな思い入れのあるものだろう。
上の子が生まれたときは、とにかく最初の一瞬をのぞいて十日ものあいだ抱くことさえできないというのが予想外だった。妻以外は、一日に二度だったか新生児室のガラス窓越しに見ることができるだけ。それも新しい赤ちゃんが増えるたびに日毎にガラス窓から遠ざかっていくのだった。間近に顔を見て、抱いてみて、名前を考えるつもりだったわたしの思惑は見事にはずれた。
とりあえずその十日間に命名の本を二冊読んで考えた名前は「正子」「優子」「直子」などだった。「子」にこだわったわけではなく他にも考えたはずだがすでに忘れてしまった。妻は最初から今の名前を気に入っており、退院してから届け出期限までの数日でわたしにとってもしっくりきたので決めたのだった。
ところで上の子の名前は、わたしの亡くなった姉の名前でもある。そのあたりわたしの母にとっては感傷の入るものかと思っていたが、五十年もたてばそれほどでもなさそうだ。姉のことをいうときは「先代」という言い方をしたりする。先代は、終戦の年に、三歳を待たずに他界したとのこと。股関節の脱臼がわからないままに育ったため下半身が不自由で、風邪から腎不全を起こした。今の時代ならおそらく失うことのない命だっただろう。その思いはわたしの母の戦争の記憶そのものでもある。
今日は広島の原爆忌。朝食時、テレビで原子爆弾のキノコ雲を見た上の子が「これはばくだん?」ときいた。「そうやよ」という答えのあと、孫に話すというわけでもないまま、わたしの父が被爆直後の広島に知り合いを訪ねていったこと、大阪空襲のときに火の海を逃げまどったこと、といったわたしの母の話が続いた。聞きながら、ぼんやりと、姉が生きていたらどんなだろうなぁと考えていた。生きていたら、娘にはやはり違う名前をつけたのだろうか。
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