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2000年8月19日(土)
◆《よく遊べ》

 少し前、NHKの番組で子どもの運動量が不足しているという話題をやっていた。少ない例として上がっていたのは、幼稚園から帰宅するとそのまま外で遊ばずにすごしたというパターン。わが家でもよくあることで、痛いところを突かれる感じだった。

 お盆休みのあいだはできるかぎり子どもと遊んだけれど、もちろんそれにも限界がある。好きなだけ、あるいは必要なだけ外で遊ばせるというのはわが家では簡単なことではないとつくづく感じたのだった。
 昔はどうだったかというと、自分の子どものころのことで言えば、たしかにすぐ近所の遊び場所には事欠かなかった。隣は大きなモータープールで、向かいは墓地。墓地のむこうは児童公園。さらに公園の隣は空き地で、道をはさんだ空き地の隣の区画にも大きな空き地があった。そのあたりがホームグラウンドだっただろうか。そのへんにさえ居れば近所の人の目もだいたい届いた。

 今は、外で遊ぶと言えば近くても遠くても公園しかない。しかも車等が多いので近くても遠くても親がついていかないとその公園までたどりつくことができない。といって親もそうそうついているわけにもいかないので、結果的にそれで運動が足りなくなるのであれば、基本的に町そのものが子どもが力強く育っていけるようになっていない、ということなのだろう。
 妻がよく言うのは、小中学校の体育館などを解放してほしいということ。そんなに広いところでなくとも、町内会の会館の一室でもいい、雨降りのときだけでも無料か格安で使えればどれだけ助かるかということだ。ちなみに、育児サークルをやっていたことがある妻は、友人と一緒にすぐ近所の町内会館に対してそういった使用の交渉をしたが、なんと建物が私有物なので無料ではできないということだった。というわけで、余計な遠慮のいらない公共の建物で子どもを遊ばせようと思っても、すぐ近所にはそれが存在しないのだ。このあたり、行政は無策だったのだと思う。というより、小さい子どもの遊び場所ぐらいはそのへんにいくらもあったので、管理などのコストをかけてどうこうする必要もなかったのかもしれない。

 しかし、子育てが始まってすぐに直面するそういった問題は、当事者には大きくて重い。続発する十代の人間による悲惨な事件をなんとかするためには教育における根本的な対策が必要――などと新聞にもあるが、そうであればこういった幼児の遊びの問題も考えるべきだろう。簡単に解決することではないけれど、遊び場所がなくて健康に育てられないのであれば、遊び場所を作るしかない。四歳のわが子のことしかわからない。なおかつ昔のこととして考えてみれば、その当時のことなどほとんどが忘却のかなたで、自分の中でどれほどのウエイトがあったのかもよくわからない。しかし彼女の今の生活はそのすべてが遊ぶことで、そこを通らないと次にはいけないように、わたしには見える。気の済むまで気の済むように遊ばせてやりたいものだ。
 もっとも紫外線の強い日には外で遊ばせないという幼稚園も出てきているという状況だが……。

 ところで今日は外で遊びたいとは一度も言わないままに過ごした。体調は悪くなさそうなので理由は不明。ただし先日の「ハーヴェストの丘」での「芝すべり」が忘れられなくて、もっともっとやりたいらしい。思い出して絵を描いたりしていた。先日は二十分間で最大斜度二十度の斜面を十二往復…… 考えただけで「気の済むまで……」という前言を撤回しようかという気になる。