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2000年9月22日(金)
◆《道はどこへ》

 オリンピックの柔道は、あれは柔術と呼んだほうがいいと言ってた人がいた。仕事上の上司格で剣道暦五十年の人。二、三回前のオリンピックからの話だ。勝敗を最大の目的にして、「礼に始まって礼に終わ」っているようにも見えないからだというのがおもな論点だった。しかしそんなふうに言われたところで、わたしは柔道における礼のとらえ方なども知らない素人なので、お酒を飲みながら適当な相づちを打つぐらいしかできなかった。

 とはいえその人の言うこともわかる。「〜道」のつく世界には勝敗などの結果だけではなく、伝統的なものや精神性など結果以前、または結果以外のプロセスも重視するようなイメージがわたしにもあった。たしかにテレビのオリンピック中継からはそんなものはなかなか伝わってこない。今回のシドニーオリンピックでも、外国のコーチが審判に対して、相手方への減点をハデなジェスチャーと大声でアピールしたりするのが見られて、ああいうのは本当に見苦しいと思う。また審判のほうも、主審の判定が副審によってくつがえされるシーンも幾度となくあり、レベルが低すぎるという話もちらほら聞こえていた。

 ……という文章を四、五日前から作りかけては結局はボツにしていた。たとえば19日の男子81kg級で滝本選手が優勝した試合を見ていて、ああ、これはすでに国際的なスポーツなんだなぁとつくづく思ったからだ。おそらく今の選手は最初からオリンピックの競技種目でもある柔道を見てやってみようと思い、その世界に飛び込んで見事に結果を出したのだからそれはそれで気持ちよく賞賛したかった。

 しかし100kg超級のあの誤審と、それに甘んじて笑顔を振りまいているあのフランスの金メダリストは、やはり「〜道」の世界にふさわしくないのではないか。フランスにもフェアプレーの精神はあるだろう。なおかつ己の志したものが柔道という世界であるのなら、負けは負けだといさぎよく認めるべきだということぐらいは学んでいないのだろうか。それは審判も同じだ。ルールがどうであれ、それを超越する競技人としての良心というものが存在するはずだ。どうして自ら誤りを正すという選択肢がないのだろう。
 誤りが誤りのままでとおる「〜道」の世界などに甘んじてほしくない。日本の柔道選手たちはすべてのメダルを放棄して帰国するぐらいでもいいんじゃないか? 発祥の国として柔道の「道」という名のもとにそれぐらいのプライドでこだわってもいいんじゃないか?