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2001年2月26日(月)
◆《されど幼稚園》

 娘の転園ということもあって、幼稚園のことばかり書いている。
 そもそも幼稚園の意義というのか、成長の過程でどれぐらいのウエイトをもつものなのかというのがよくわかっていない。非常に重要だという話もあるけれど、自分を顧みるかぎりではほとんど記憶にもないぐらいなのであまりピンとこないというのが正直なところだ。
 今回いろいろと話をきいた(実際にきいたのはほとんど妻だが)中で印象的だったのは、その幼稚園時代の記憶に関してだった。大雑把にいうとわたしと同じような年齢かそれ以上の人には、幼稚園のことなどほとんど覚えていないという人が多いようだ。逆に覚えているという話が多かったのはもう少し下の年齢になる感じで、特徴的だったのはそれが「おもしろくなかった」という記憶になっていることだった。要するに、幼稚園など楽しくすごしてさえいればあまり表面的な記憶には残らないということなのかもしれない。
 ちなみに妻も「おもしろくなかった」という強い記憶があるらしい。そのためにその後の自分がどうだったということもないけれど、だからこそ自分の娘には楽しい幼稚園時代をおくらせてやりたいのだと言う。たしかに娘が「自分の幼稚園時代はおもしろくなかった」という記憶を抱いて生きていくことを想像すると、親としてとても切ないものがある。そうすると、幼稚園なんてどこでも大差ないだろうという当初のわたしのような感覚は、それなりにおもしろくてあまり記憶にも残らないような体験をしてきた者の感覚に過ぎないのかもしれない。
 娘にはあまり記憶に残らないような幼稚園時代をすごさせてやりたいものだと思う。「幼稚園? あんまり覚えてない…… 毎日遊んでたように思うけど」というぐらいでいい。

 娘にはこの数日不安定な面がある。また結果として反抗的でもある。ただ自分自身をコントロールしきれない感じで、どうも子どもなりの価値観の調整期間のような気がしてしかたがない。
 彼女が一歳ぐらいだったころ、当時の新聞に「教育を考える」という感じの連載記事があり、気になってよく読んでいた。小学校の一年生でも学級崩壊の起こるケースがあって、幼稚園での放任主義を指摘する小学校の教師もいるという話が印象に残っている。信じられないような気がしたものだった。仮に幼稚園で徹底的に放任されたとしても、相手は六歳の子どもなのだからなんとかなりそうに思ったのだ。今は六歳の子どもが本気で反抗したらそう簡単にはいかないかもしれないという感覚に変わっている。

 今回のことで娘を見ていると、ストレスからの解放感も小学校での収拾のつかない状態をまねきやすそうな気がしている。受験生活をおえて大学に入った当座は遊びたくてしかたがないのと似ている……といったら冗談になってしまうだろうか。だが単純に考えて、小学校での問題の原因が幼稚園にあるとすれば、絶対数の多いタイプの幼稚園から検証するべきだろう。実際にどういうタイプの幼稚園が多いのかは知らないが、わが家の近辺ではゆったりと自由にというよりも忙しいタイプの幼稚園が多そうだ。

 一説によると、昭和四十年ごろから忙しいタイプの幼稚園が増え始めたらしく、それはちょうどわたしの年代のタイミングでもある。忙しくても機嫌よくしていればそれでいいのかもしれない。しかしおもしろくなくてストレスが溜まるようになっても、同じような経験をしてきた親が幼稚園とはそういうものだ思っていれば、問題にさえされないかもしれない。片方で、今の町中には開放的な遊びの環境がなく、子どものストレスを解消することがむつかしくなっている。そのままストレスや諦観をかかえたまま小学校、中学校とすすみ、体力のついたころにわけのわからない暴力にはしったりする確率が高くなる…… などというのは考えすぎであってほしいものだ。


♪ with "Chronicles" / Eric Clapton