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2001年6月23日(土)
◆《褒めすぎたか》

 少し前の公園での話。知った友だちと会えなかった娘は、二歳ぐらいの男の子とその母親があそぶブランコの隣に陣取り、あれこれとしゃべりはじめた。まぁよくしゃべることしゃべること。それもいわゆるおせっかいである。最初の数十秒がすぎるとすぐにこうすれば上手に乗れるとコーチしはじめ、それからは自分は五歳でどこの幼稚園だという自己紹介や、あれはパパで家にはママとおばあちゃんと妹がいて妹は男の子みたいだという家族紹介、自分は三歳のときから練習したから立ち乗りができるようになったという苦労話と、思いつくままにしゃべりまくっていた。そして最後は(たぶん娘のおしゃべりに辟易して)他のあそびにかわろうとする母子にむかって、ブランコから降りてすぐ前や後ろを歩いたらだめという指導までしていた。ある程度のおしゃべりは知っていたがそんなおせっかいの現場に居合わせたのは初めてで、ちょっとショックだった。

 褒めすぎは良くないという話はよくきく。子どもはもともと、注目されることは求めても褒められることまでは求めていないともいう。そこへ親を含めた大人が注目してさらに褒めすぎる習慣をもってしまうと、やがて子どもは大人から褒められることに自分の存在価値を求めるようになる。それは褒められないことをしたのは失敗だったという感覚と裏表にもなる。しかし人間は本来褒められるかどうかにかかわらずその存在価値をもっているわけで、特に親は子どもの存在を無条件に受け入れて、愛するものだ。それが子どもの自信になっていくのに、褒めすぎることが結果的にその自信を阻害していく……
 と、いうような話はフンフンナルホドと理解はできたのだが、当然ながら子どもの小さいあいだはなかなか実感が伴わなかった。むしろ褒める表現一つにしても実際には人によっていろいろ違いがあるだろうし、それぞれの親子関係の中でどんな表現で何が伝わるかをだんだんと作り上げていくものだろうという気がしていた。言い換えると、どういう態度が褒めすぎになるのかよくわからない面もあったということだ。また、子どもの認識をゆがめてしまわない範囲で褒めて育てることは、それなりに良い面もあるように思えた。歌がうまいと褒められてその気になって歌うことにより本当にうまくなることもあるだろうということだ。そんなこんなで、わが家は結果的にベタベタと褒めることもけっこう多かったように思う。

 しかし、冒頭のようなシーンを体験すると、やはり褒めすぎの弊害かなぁという気になる。自分が一生懸命歌ったときは家族の拍手が待っているのと同じように、自分が一生懸命しゃべったときにも家族をはじめとした大人たちの賞賛(少なくとも理解)が待っているものと思っているように見えるのだ。ところがおせっかいな子どものおしゃべりなど賞賛どころか反感の対象になるのがせいぜいだろう。子ども同士のことはよくわからないが、大人がついていれば、そのうちに娘の姿を見ただけで敬遠する母子がでてきても不思議ではない。

 もちろん褒めすぎだけが原因ではないかもしれない。いずれにしてもよい傾向ではないので、さっそくわかりやすそうなところから諭しにかかった。けれど娘にとってはなかなかわかりにくい話のようだ。言葉づかいの延長のようなものだから、いずれこちらのいうこともわかるようになるとは思う。友だちとのやりとりの中で自然に修正されていくかもしれない。だからそれほど心配はしていないのだが……。


♪ with "Refugees of the heart" / Steve Winwood