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上の娘の幼稚園の運動会。最初の体操が始まってしばらく、なんとなくしっくりこなかったのだが、すぐにそれが子どもたちが私服を着ていることによるものだとわかった。転園前の去年の幼稚園の運動会を含めて、初めて私服の運動会というものを見ていたわけで、それは子どもたちの「普段着」の催しであることを象徴するようにも思えた。上の娘が普段着でする運動会を見るのはこれが最初で最後かもしれない。
体操が終わるとかけっこが始まる。結果は去年と同じ三人で走って三等賞だった。だが今年は一等二等三等の旗の下にすわる必要はない。去年は風邪と「二日前の告白」もあって妙な悲壮感さえあって見たのだが、今年の娘はファインダの中で笑っているように見えた。
そして今年の「二日前の告白」で見て見ぬ振りをすることになっている跳び箱のある競技がはじまった。有り体に言えば障害物競走で、跳び箱、ムカデ歩き、梯子歩き、脚立からの飛び降り、鉄棒、サッカーのシュートをこなしていく。ただし相手との競争ではなく、最後までがんばってやりとおせるかどうかがポイントになっている。最初の跳び箱をちゃんと跳べた子は半分もいなかったので、そういう意味では全体の難度は高いのかもしれなかった。特に1.5メートルほどの脚立からの飛び降りは、今どきはなかなかする機会のないことなので「やるなぁ」という感じだ。最初見たときはうちの娘ではまず無理だろうと思ったのだが、娘のほうはむしろ見せ場ととらえていたらしい。なんなく飛び降りて、その次の鉄棒も無事クリアした。子どものがんばりは自分の子にかぎらずどんどん拍手したくなるものだ。そんな拍手が随所で湧いていた。
もう一つのポイントはダンスだっただろう。全体にリラックスしていて、最後の決めのポーズが鮮やかだった。去年の幼稚園では同じようなダンスのプログラムが複数で、その上に鼓笛隊の演奏などがあったように思う。少なく見ても三倍以上の練習が必要だろう。そのあたりのことと比較して「レベルが低い」と表現するむきもあるようだがおかしな話だ。少なくとも、同じ演技であるとか同じ練習期間を設定するとか、そういったことも含めた考察がないとレベルを云々しても意味がない。単に考え方が違うというだけだろう。子どもが余裕をもって取り組める範囲にすることで、表情の輝きや親のカタルシス(!)を実現しているとすれば、今年のほうがむしろ理想が高いと言えるかもしれない。
話が広がってしまうけれど、子どもにストレスを強いてどう克服するかを課題にし、しかもそれが小学校での生活にプラスになると去年の園ではしきりに言われた。この辺りには同じような考え方の伝わってくる幼稚園も多いので、それだけ親からも支持されている考え方ということになるのだろう。しかし小学校の生活に対してまず「ガマンすべきもの」のようなイメージを設定してしまうのはどうなんだろうか。入る前から「学校なんておもしろいところではないよ」と教えているようで、良いやり方だとも思えないのだが。
そしてそういったストレスの克服のためにも「たのしいたのしい」既存のキャラクターなどを流用して餌にするわけだが、小学校でのことまで云々するわりにはずいぶんと安易な発想だ。だいたい、著作権上の問題だってあるだろう。きちんとされているのならいいが、いい加減な扱いでは他人の権利に対する無神経を子どもに押しつけていることになる。
親のほうの見せ場は、父親は綱引きだった。不良品のような竹トンボをとばす競技に苦しんだ去年に対し、今年は優勝だ。筋肉痛を覚悟した甲斐があった。妻のほうは二人一組で大きなパンツをはいて走る競技で、いい勝負だったものの二位に終わった。むふ。
そしてしめくくりはリレー。これはきちんと順位をつけての勝負だ。子どもたちは屈託なく楽しんでいてとても気持ちがよかった。
娘が幼稚園にいくようになるまでは考えたことさえなかったけれど、運動会というのは子どもに対する考え方が象徴的に表現される機会であるようだ。教育の問題として指摘されることの、その原形が見える機会でもあるのかもしれない。というと大げさになるけれど、転園を経験したわが家にとっては何から何まで去年とは対照的な一日となった。娘は「まえはね、ぜんぜんてつぼうでけへんかったけど、いまはできるようになってん。ふしぎなようちえんやで」とのこと。本番で鉄棒ができたことが嬉しくて仕方ないようだ。そんな感想を持たせてくれた今の園に感謝したい。
とうとう空爆が始まったか……。(10/8)
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