title
2001年10月25日(木)
◆《いただきます》

「おたと、ほひ」
 下の娘が言った。食卓の上にはサンマの身をほぐしたものが置いてあった。ゆうべの残り物だ。朝から食べたいらしい。用意してあったパンもすでに半分ほど食べてあり、食欲旺盛だ。
「朝から食べたいのかー、えらいなー」
 という言葉がつい口をついて出てしまった。ちらっと上の娘のほうを見ると、少し口をとがらせるのがわかった。いつものように食事にはまだ手をつけていなかった。

 似たようなことが最近増えてきている。上の娘は、よほどお腹の空いているとき以外、定時の食事に対して消極的だ。最終的にはそれなりに食べているようだが、とにかくとっかかりが悪く、だらだらとしてなかなか食べ始めないことが多い。なんだかんだとあそんでみたり、その時食べたいものに強くこだわったりしている。
 嫌いなものを食べさせようともしていないので、出されたものをさっさと食べればいいと思うのだが、このあたりは妻とも少し見解の分かれるところだった。彼女は、可能な範囲でメニューの選択を認めようとする。朝であれば、食パンやおやつの菓子パン、ご飯、果物などが選択肢になる。他の者がさっさと食べ始めているのに、娘がぐずぐずと、これはいらないあれがほしいなどと言ってるのを見かねて「あれこれ注文をきくようなことはしなくていい!」と妻に言ったことが一、二度あった。あったけれども、それ以上徹底させるほどの権威のないのがつらいところだ。現実には時間の制限もあり、そのとき一番食べたいものをしっかり食べていくほうがいいという面があるのもたしかだ。

 下の娘を誉めて、上の娘の口をとがらせるというのはいいパターンではないので、気にするなとフォローする。だが、どうもなにか根本的におかしなところがあるような気がしてきた。要は、上の娘の食事に対する感覚そのものが好ましくないわけなのに、好き嫌いや食べるか食べないかばかりにこだわってしまっている。そもそも食事とはなんなのか、食べ物とはなんなのかみたいな部分が抜けているように思えてきた。
 食前の祈りの習慣でもあれば、どうして祈るのか、みたいなところから話になったりもするのだろう。だがわが家にはそんな習慣はない。あるのはせいぜい晩飯前のビールの乾杯ぐらいのものだ。この状態で、食べ物はもともと他の生物の命であり、無駄にしてはいけないものだなどと娘たちが学ぶと考えるほうがおかしい。

 世界観や生命観ができてくれば、食事に対する感覚も自然に変わってくるものなのかもしれない。あるいは、そういうことを教えるのは宗教である場合も多いのだろう。日本でもわたしの親の世代(大正末期生まれ)ぐらいまでは、ご飯にはご飯の神様がいて、大切にせねば罰があたると教えるのは普通のことだったように思う。ただ、わたしの親の世代は第二次大戦の敗戦で、そういった宗教観に対する自信も失っていただろう。そのためにそれほどきちんと次の世代に伝えられていないようにも思う。その代わりに「モノのない時代」の話のウエイトが高くて、それをモノとの関わりを考えるきっかけにしたわけだが、モノのある時代になると説得力がなくなってしまったというところだろうか。そういえば、わたしには子どもたちに伝え渡していくべきものとしてはっきり認識している教えはないし、祈りもない。仮にそんなふうにたどると、戦争の後遺症のとんでもない重さを思ったりもする。今もそのさなかの国があるわけだが……。

 よし、いっそ食前に我流で祈ってみようかとも考えたが、きちんとした「いただきます」であれば食べ物に対する感謝の気持ちも十分にこめることができるだろうと思いなおす。そんな感覚があれば、そのうちにちゃんと食べる助けになることもあるだろう。そんなわけで、あらためて「いただきます」を励行中のわが家だったりする。
 ……で、二、三日して「パパっ、『いただきます』やで!」と上の娘に言われたりしている。


♪ with "Killing Me Softly" / Roberta Flack