title
line
『煙はどこだ?』(1)

「こんにちは」とかなんとか挨拶めいた言葉は交わした。が、電話の相手が誰なのかはまだわかっていなかった。たしかに声に聞き覚えはあるのだが……。一言二言相づちのような受け答えをしながら、妻の勤め先の人? それとも長い間話していない親戚の誰か? それとも間違い電話? などと思い浮かべていたのだけれど、次の言葉だけはしっかりとひっかかってきた。
「店が燃えてるんやて!」
 燃えてる? 店? この人は一体何の話をしているんだ……。
「はぁ?」
「大家さんが電話くれはって……」
「……あのぉ、店って妻のですか?」
 妻は「店」と呼べるところに勤めている。ただし、ついさっき今から帰るという電話があったばかりだ。言ってしまってからそれを思い出した。
「違うやんか、あんたとこの店やんか」
 そうか! ようやく相手の正体がわかった。妻の母親、つまりぼくの義母だった。しかし……店が燃えてる!?
「うちの事務所ですか?」
「そうやん、火事やんか!」
「ええーっ!」
 頬のあたりから背中にかけてじーんと電気が走った。血の気が引いて、顔の表面がしびれていく。額の内側のあたりで、真っ赤なものが急激に広がっていった。
「大家さんがね、そっちの番号わからんからってかけてくれはったんや」
「燃えてるって、なんでですか?」
「わからへん。とにかく今燃えてるから、あんた店行った方が……」
「わかりました、すぐ行きます!」
 火事? 今燃えてる? なぜ??? 事務所に火の気なんてないはずだ。けど今燃えているんだったら、消えるまで広がるだけなのか? 何かの間違いではないのか? 二階から階段を降りるあいだにも頭の中で回転灯が回り、クエスチョンマークが明滅していた。同時に、肩から上のあたりでアドレナリンだか冷や汗だかが吹き出してくる。
 下では母親が晩飯の天ぷらをあげていた。
「お母ちゃん!」
「なに?」
「事務所が燃えてるんやて!」
「えっ!」
 高血圧が持病で、父親が死んでからここ数年、さすがに気の弱いところも見せるようになった母親だった。不整脈まで持っている。普段ならこんな唐突な言い方をしないよう、何を喋るにしろその都度できる限りの気づかいをするのだが、この肝心な時にそんな手続きをとばしてしまった。母親の顔が見る見る蒼白になった。
「なんでやの……」
「今の電話、お義母さんからやった。大家さんから知らせがあったんやて」
「そんなん……」
「とにかく行ってくる」
「一緒に、行こか?」
「いや、あいつももう帰ってくるから」
「そうやな…… せやけどなんでやのん?」
「わからん。今日帰るとき電源とか全部切ったよな?」
 ほんの少し間があった。
「切った。ちゃんと切ったわ」
「そやろな。わかった。そしたら行ってくるわ」
「気ぃつけや」
「うん。駅まで迎えに行かれへんから、そのうちあいつから電話してくると思うわ。そしたら説明しといたって。またあっちから電話するわ」
 それだけ言うと、ぼくは車に乗った。
 幹線道路まではすぐだったが、そこからは少し混んでいるようだった。六月の夕闇が空を染めにかかる時刻、ぼくはほとんど無意識に、事務所の方角の空を探していた。
――煙は? 煙はどこだ? (つづく)



もどる← Index →すすむ

HOMEご案内アメとムチの日々あるばむ暖談畑おまけExit & Links