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『煙はどこだ?』(2)

 煙は無かった。
 少し窓を開けてみたけれど、焦げ臭い匂いも無かったし、サイレンの音も聞こえなかった。
――よし。少し落ちつけ。地下鉄で二駅あるんだ、こんなところまでそうそう匂いがしてくるはずもないじゃないか。舞い上がって事故でも起こしたら洒落にならんぞ。
 最初の大きな交差点で信号にかかった。二十分後には妻が待っているはずの交差点だ。待たないでできるだけ早く家に電話をしてくれるといいのにと思いながら考えてみる。タバコの始末には自信があるから、出火原因は電気系統の事故ぐらいだろうか。母親などと話すときは事務所と呼んではいるが、実質は親父の作った機械を据えた作業所であり、ぼくの仕事場である。電力を使うものがいくつもあった。ネズミが電線を齧ってショートさせることもあるときくが、リアリティがある。半年前に事務所を借りて以来ネズミには苦労させられていたからだ。建物が古い上に北隣が空き家になっているせいもあるのだろう、ネズミが多く、それらしい隙間には厚手のガムテープを貼ったりしていたが、何度でも喰い破って侵入してきた。
 あるいは放火か? 周辺の人達に恨まれることがあるとすれば毎日仕事場の前に車をとめていることぐらいだが、それで火をつけられたりするものだろうか。
 踏切にさしかかった。
 うまい具合にすぐに通り抜けることができた。
 そしてまた信号。
 しかしなんということだろう。うちが火元なのだろうか。もしそうなら賠償金など払わねばならなくなるのだろうか。莫大な額なら破産するしかないのだろう。半年前に、親父の遺した負債にようやく自分なりのやり方でケリをつけたところだというのに、こんなことですべてがブチ壊しになるというのだろうか。
 次第に濃さを増す夕暮れの藍色が、心の中に染み通ってきて暗黒に変わっていくような気がした。
――くそっ、こんなことで潰されてたまるか!
 車のヘッドライトをつけた。
 ああ、大声を上げて逃げ出したい気分だ。ほんとにほんとなんだろうか? お義母さんの早とちりでも、家主のじいさんの戯言でも今回だけは笑って許そう。大笑いで笑いとばしてビールで乾杯だ。そうだ、ビールが飲みたい……
 だが、こんなことにそうそう間違いはないだろう。規模はわからないが、とにかく今、実際に燃えているのだ。喉が乾いた。本当にビールが飲みたい。このまま脇道にそれて、適当な飲み屋に逃げ込もう。そうして夜中になったらこっそり見に行くのだ。被害が大きそうならそのまま雲隠れしよう……
 ダメダダメダ! 妻や母親はどうなる? 今まで現実と真正面から対決してきた自分はどうなる? どんな時でもその時点での最良の選択というものがあるはずだ。少なくとも後悔だけはしなくていいという選択が。他人からはどう見えるにしろ、そうやって生きてきたはずじゃないか。ちゃんと考えろ! 今どうするべきか考えろ! 今、沢山の人に迷惑をかけながら、自分の仕事場が燃えているんだ。そういう話なんだ。だからまずそれを確かめろ。そう、たった一本の電話でそう知らされただけだ。火災の規模さえはっきり知らないままウダウダ思い悩んでも仕方がないじゃないか。
 対向車線はそこそこの混雑だった。下り線にあたるから、時間的にもそういう頃合いなのだろう。みんな平和な顔をしているように思える。この中に、この派手めな緑色の車に乗って焦っている人間が、実は今から火事場へ向かう途中だと想像する奴なんているだろうか。それも自分が借りている事務所の火事現場に。
 母親は大丈夫だろうか? あんな言い方をするんじゃなかった、なんとか耐えてくれ。……あいつにも苦労かけることになるな。
 しかし煙は? 見えるならもう見えてもいいはずだ。それとももう消えたか。あるいはボヤ程度だったか。それとも何かの間違いか。だめだ、考えがチラチラするばかりで全然まとまらない。
 道路が空いた。
 アクセルを踏み込むと力強い加速感が伝わってきた。
――今はまだこの車を失いたくないな……。
 買ってから一ヶ月しか経っていない車だ、売ればそれなりの金にはなるだろう。……だめだ。どうしても考えがそういう方向にいってしまう。ウダウダウダウダ考えるなって!
 車は速度を上げた。自分が少し笑っているような気がした。
 不意に親父の顔が思い浮かんだ。酔っぱらった赤ら顔に座った目をしている。病的なほど「火の用心」にうるさかった親父だから、あの世から説教しに帰ってきたのかもしれない。それとも自分の作った機械が心配になったのか。
――もうちょっと待ってくれ、ぼくの責任と決まったわけじゃないんだから。それより機械が燃えてたら…… ごめん。
 幹線道路どうしの大きな交差点をギリギリのタイミングでクリアすると、事務所への最後の信号だった。(つづく)



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