最後の曲がり角をいつもよりもオーバースピードで曲がりおえた瞬間、いくつもの回転灯が視界に飛びこんできた。そのときからぼくにとっての火事が現実になってしまった。
人と車がいっぱいで事務所から二ブロックほど離れたところにしか車を停められない。そこから歩き始めたが、事務所のある建物は手前のビルの陰になってよく見えなかった。煙が立ち昇っている様子はない。しかし少しなら闇にまぎれて判別できないだろう。焦げ臭い匂いはしていなかった。人ごみを押しのけて事務所のある建物にたどりつくと、歩道に張られたロープをくぐった。急に湿気を含んだ焦げ臭い匂いが鼻をついてきた。広い通りに面した側は喫茶店になっており、その前にワンボックスタイプの消防車が停まって警官や消防士がたむろしていた。どうやら喫茶店も燃えたらしい。人がいっぱいで中が見えず、一瞥しただけでは詳しいことはわからなかった。
仕事場は喫茶店の隣だった。一瞬、見るのが怖いような感覚に襲われたが、躊躇する余裕を脳が受けつけない。ほとんど無意識に最後の何歩かを歩き、最前列の人垣を押しのけた。
仕事場の前に立った。
四枚あるシャッターのうち三枚が開けられていた。そして、元々は二店舗分の区画をぶち抜く形になっているために二つあるドアと、喫茶店に近い側の窓も開けられていた。照明は点いていなかった。
本当だ。本当にぼくの仕事場が火事だったのだ。
家主さんがいた。喋りかけたが、喉がカラカラで強い咳払いをしなければ声が出なかった。
「どうも……」
「ああ、来てくれたか。連絡がつかなんでな」
「すみませんでした。で、どういう状態なんですか」
「いや、シャッター開けたからな、とにかく来てもらわんと、なんかモノがなくなったりしたらあかんやろ」
「ええ。……中は? 入ってもいいですか?」
「ああ、電気点かんけど」
おそるおそる中に入った。すでに消防士が二人いて、喫茶店との境目になる奥の壁の方で、天井を懐中電灯で照らしながら話をしていた。戦国武士の鎧を思わせるような防火服を着て、こちらを振り向こうともしない。懐中電灯の光は、天井に開いた畳一帖分ほどの穴を照らしていた。黒々として不気味な穴だった。天井裏の鉄骨が見える。鉄骨には断熱材らしきものが溶けてこびりついており、ポトポトと水が滴り落ちている。懐中電灯の光が鉄骨とそれに絡むようにして這っている電線にそって何度か行き来していた。ライオンに喰いちぎられた水牛の傷口を調べているような気がした。
視線を落とすと、その下に置いてある機械や、いろいろな道具を置いた台に、すべて黄色い防水シートが掛けられているのがわかった。ありがたいという気持ちが湧く。さらに視線を落とすと、そのあたりの床には水が溜まっているように見えた。
消防士が出てきた。押されるようにしてぼくも一旦外へ出て、また入りなおす。そして、とにかく床に置いてあった段ボール箱を作業用のテーブルなどの高い所に移した。床に溜まった水は五センチほど。段ボール箱の中の品物はビニール袋に入っているので大丈夫だとは思うが、水をかぶればダメになるものがほとんどだった。一とおりの作業を終えるとぼくは外へ出た。この程度なら御の字だろう。しかし問題は「どこから火が出たのか」だ。
家主さんはまだ近くにいたのでそちらへ行った。取り囲むようにして近所の人たちが集まってくる。好奇心に満ちた視線を感じたが、そんなことはどうでもよかった。すぐに訊いた。
「火が出たのは…… 喫茶店なんですか?」
「……そうや」
「ああぁ」
ぼくはそう言ったきり、その場にへたり込んでしまった。肩のあたりから、透明な、血液のような粘度をもったものがいっせいに降りていくような気がした。口に出す瞬間に少しだけ自制がきいたので囁き声のようになったが、言葉が漏れ出てしまった。
「よかった……」
そのまましばらく目を閉じていた。最悪の事態は避けられたのだ。心の中で何度も「よかった」と繰り返す。そのうちに笑いながら泣きだしそうになってしまった。顔の筋肉を引き締めるのに少し注意をして立ち上がった。
「いや、うちが燃えてるから行けっていう電話でとんできましたから、全然事情がわからんかったんです。……二階はどうなんですか?」
そう言いながら、家主さんと何歩か歩いて、建物の上が見渡せるように距離をとった。二階と三階は通常の住居になっている。
「大丈夫や。畳は上げたって言うとったけどな」
「ああ、そら良かった」
家主さんは話すべき人を見つけたのか、不意に喫茶店の方に歩いていってしまった。同じ方向に喫茶店のママの姿が見えたので、ぼくは近寄って声をかけた。
「どうも」
「ああ、見えられたんですか」
「ええ、今着いたところです」
詳しいことは知らないが、ママはきれいな東京言葉を話す笑顔の美しい人だった。四十代の半ばぐらいだろうか。だが今は化粧もなく青ざめている。髪も乱れ、いつもの笑顔も無かった。興奮のためか目が見開かれており、肩のあたりが少し震えているような気がした。
「大変でしたね。大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。もう電話で驚いちゃって…… 私、いつもほんとに注意してるから、タバコの始末とか絶対自信あったんですよ。だけど、今燃えてるって言うから…… もう信じられなくて。ここへ来るまでがほら、もう気が気じゃなかったですよ」
声も、やはり肩のあたりも、震えていた。
「ほんとですよね、ぼくも同じでした」
「びっくりなすったでしょう?」
「もう、オシッコちびりそうでしたよ」
なんでこんなときにこんなくだらないことを言うんだろうと自分でも思ったが、ママが笑ってくれたのでよかった。
「帰られてからだったんですか?」
「そうなの。家に着いたらすぐに電話がかかってきて……」
ママの肩越しに少し店の中が見えた。相変わらず人がいっぱいで被害の状況はよくわからなかったが、どうやら奥の配電盤付近が強く燃えたようだった。うちとは壁一枚隔てているだけだ。誰かが『もう五分ぐらい遅かったら、外に火が出て上も危なかったやろうねぇ』と言うのが聞こえた。
三階建ての建物全体として見れば被害は軽微と言えそうだった。うちの事務所も水の被害はともかく、燃えたものはなさそうだ。そうとわかれば、とにかく家に電話して母親を安心させなければならなかった。
喫茶店の外側に公衆電話があった。毎日それを使う人の話声が聞こえてくる電話だ。だが使えなかった。火事の影響なのかもしれない。結局、近所のコンビニまでいかねばならなかった。
「もしもし、ぼくや」
母親の張りつめた声が待っていた。
「どうやった?」
できるかぎり平静な印象を与えるように注意して、言った。
「大丈夫や。もう火は消えてるし、うちから出たんやないから」
「そう、よかったぁ」
「大丈夫か?」
「もおびっくりしてなあ、ちょっと胸がしんどなって横になってたんや」
「そおか。……ぼくもびっくりしたからな」
言いながら不安がよぎった。
「とにかくバタバタしたらあかんで。絶対血圧上がってるんやから」
「ほんまに、どないしょうか思てな……」
「まぁ、とにかくちょっと横になっとり」
「うん。そんならちょっとお風呂でも入ろか。機械は? どないもなってないの?」
「いや、詳しいことはまだわからん。停電で真っ暗やし。けど、シートもかけてくれてるし、まぁたいしたことはないと思う。そんなに心配せんでええと思うわ」
「ほんまぁ、よかったなぁ」
母親の言葉の間に、少し涙声が混じったようだった。
「で、あいつは? 帰ってきた?」
「まだやねん。まだ電話かかってけえへんねん」
時計を見ると七時四十分をすぎたところだった。驚くほど時間が経っていない。まだ、駅についたかどうかというところだろう。
「もうかかってくるやろ。かかってきたら心配せんでええって説明しといたって」
そう言って電話を切り、とにかく一つ仕事を済ませたような気分でぼくは現場に戻った。(つづく)
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