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『煙はどこだ?』(4)

 あるじに無断で開け放されたドアや窓は、あらためて見るといかにも荒らされた跡という感じがした。いわれのない迫害を受けたことを建物が訴えているようだ。再び仕事場に入ると、まず床が泥だらけだということに気がつく。もっと詳しく見ようとペンライトを探していると、誰かが声をかけてきた。
「ライトですか? 持ってきましょうか?」
 振り向くと、人のよさそうな初老の男性が玄関に立っていた。白髪に老眼鏡。だが、身体からはどこかしら若々しいエネルギーが発散しているようだった。
「ああ、すみません。ペンライトがいくつかあるはずなんですけどねぇ、大きいのはこないだ自宅に持って帰ってしまって……」
「持ってきましょう。ちょっと待っててくださいよ」
 男性はそう言うとさっと出ていき、入れ替わりに消防士が入ってきて事情聴取を受けた。型どおりの受け答えの最中に、先ほどの男性がライトを二つ持ってきてくれた。一つは小さな蛍光灯を点けておけるタイプで、どちらも返さなくてもよいと言う。身元を尋ねると、すぐそばで税理士事務所を経営している人だとわかった。親切が身にしみた。
 その後も警察、不動産屋、上の階の人、近所の人、と数人が入れ替わってはいってきた。事情聴取、お見舞い、好奇心その他に対処しながら片づけをするだけですぐに三十分以上が過ぎる。ざっと見たところ取り返しのつかない被害はなさそうだったが、掃除の大変さがだんだんとわかってきた。床の状態がひどいのは当然としても、天井裏のゴミやホコリで泥のようになった水が部屋一面に飛び散っているようだった。明るくなってから見ると、きっと溜息がでるようなことになっているのだろう。近所の人との話の中で、どうやら火災の原因が喫茶店の配電盤付近の漏電らしいことがわかった。なるほど、そう言えば一月ほど前に、喫茶店のママから電気系統が不調だけどお宅は異常ないかと尋ねられたことがあった。

 人が居なくなって一息つくと、義母に電話をしていないことを思い出し、もう一度コンビニの公衆電話に行った。義父がこちらに向かったとのことだった。ありがたい。
 母親のことも気がかりだったのでもう一度自宅にも電話をかけてみた。だが、こちらはなぜかつながらなかった。
 ……つながらない!? 正確には、呼び出しがかかっているのに誰も出ず、留守番応答に切り替わってしまう。三十秒ほどおいてもう一度試してみたが、結果は同じだった。なぜだ? 強烈な不安がわき上がってきた。妻ももう帰っているだろう。だとすれば妻と母の二人ともが家には居ないということになる。もう一度試しても同じ。こちらに向かって出たのだろうか。考えにくいけれど可能性はあるだろう。しかしそれよりも、母親の様子が悪くて救急車の世話になったということのほうが数段ありそうに思えた。家を出る前に唐突な話し方をしたことが今さらのように悔やまれた。

 どうしようかと考えながらとにかく仕事場に戻ってみると、お義父さんが来てくれていた。
「休業補償、がっぽり貰わないかんな」
 それが挨拶だった。笑っていた。
「さぁ…… どうなりますかねぇ」
「機械も水かぶったとか、いろいろ言わなあかんデ」
 目尻に皺をいっぱいためた、何を言っても許してもらえそうな笑顔だった。
「ほんまですねぇ。せやけど休んでられへんのですよ。納期が迫ってましてね、まぁあれぐらいやったらひょっとしたら明日……あさって……はムリか、その次ぐらいから仕事できるかもしれへんし」
「そうかぁ、そらしゃあないな」
 ぼくは公衆電話のそばの自販機で買ったタバコに火をつけた。ホヤホヤの火事場の、向かい側の家の壁にもたれて義父とタバコを吸いながら座りこむ。しかしタバコは不味かった。
「とにかく、もっとサラっぴんの、ええとこに入って仕事せんとあきませんなぁ、やっぱり」
 とちょっと大げさめに言って笑うと、義父の顔が一瞬予想外の言葉を聞いたようになったが、すぐに笑顔に戻った。
「こっちに来るん?」
 妻のことだった。
「いや、来るかもしれんのですけど、まだ話してないんですよ。さっき家に電話しても誰も出んかったから出たかもしれんのですけど。」
「ほぉ」
「母親もまいってましたから……」
「そうやろな」
 少し沈黙になった。防火服のようなものにヘルメットを被った人が話しかけてきた。
「ここの方ですね?」
「そうです」
「関西電力ですが、動力と電灯の線がショートしてしまっていますので、申し訳ないんですが、工事が済むまでは停電になりますね」
「そうですか…… いつごろ復旧します?」
「えーっと、わたしどもの方では工事の完了のお知らせをいただいた時点で電気を通すということになりますので、正確な日時の方はちょっと。まぁ二、三日ぐらいだと思いますけど」
「そうですか、わかりました」
 すぐにいろんなことが頭に浮かんだ。あかりが点かない、冷蔵庫もダメ、コンピュータもダメ、クーラーも効かない、梅雨だし、ここのところの天気が続けば蒸し暑さの極致だろう。
 ぽつりと義父が言った。
「こっちに来るんやったらそろそろやなぁ」
 時計は八時四十分を過ぎていた。
「ちょっと家に電話してくるわ」
 そう言って義父は自宅に電話をかけにいった。一人になると、悪い想像ばかりが頭を占領した。妻が家に帰る。話を聞いて驚く。こちらへ来ようとする。ところが母親の様子がおかしい。途方に暮れる。こちらに電話をかける。つながらない。母親の様子がますますおかしい。救急車を呼ぶ……。
「電話してくれてたんやな」
 しばらくしてもどってきた義父が言った。
「ああ、すんません、さっきかけたんですわ」
「すんませんな、気ぃつかわして」
「いえいえ、言うの忘れてしもて」
 言葉が途切れたまま、少し時間が過ぎた。
「そやけど、遅いですよね」
「うん」
「うちの母親、かなりまいってたからなぁ…… ひょっとして救急車でも呼んだかもしれませんね」
 同じような想像をしていたのだろう、驚いた様子も見せずに義父が言った。
「帰ってみるか?」
 はい、と言おうとしたときにまた消防士が来て、また事情聴取になった。ただし今度は、一ヶ月ほど前に喫茶店のママが電気系統の不調のためにうちにも確認にきていたことをつけ加えておいた。帰るのであれば警察に一言伝えておいてくれとのこと。
 義父に言った。
「もういいみたいですね。警察にきいて、とにかくいっぺん帰りますわ」
「その方がええな。しばらくやったら見てるよ。何かあるかもしれんやろ」
「すんません」
 喫茶店の中に居た警官も、もう帰り支度をしているところだった。お役御免になったぼくは、簡単に片づけをしてシャッターを下ろした。
「今日はどうもお騒がせしました」
「いやいや、早よ帰ったり」
「はい。お義父さんは?」
「わし、そこの寿司屋で一杯飲んでくるわ。行くんやったら一緒にいくデ」
 また目尻に皺が寄った。
「いや、帰ります帰ります」
 ぼくは顔だけ笑いながら手を振って車に向かった。(つづく)



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