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『煙はどこだ?』(5)

 少なくとも新車気分の間は車では禁煙と決めていたのに、三度目の信号で止まったときにその禁を破ってしまった。なのにせっかくのタバコはやっぱり不味かった。ただ苦いだけの煙が舌にまといつくようで、吸えたものではない。賞味期限が切れているわけでもないから、きっと感覚のほうがおかしいのだろう。
――覚悟だけは決めておかなければ。
 反対側の車線を走りながらそう思ったのは、たった一、二時間前のことだ。そして逆向きに走りながらもう一度同じことを心でつぶやいている自分がいる。この数時間の体験の苦さがタバコの味に凝縮されているような気がした。
 道路は、来た時とは比較にならないほど空いている。十分ちょっともあれば着きそうだった。
 何度考えても病院に行ったというのが最も論理的に思えた。きっと妻も途方に暮れたことだろう。こちらに電話が通じなければ、ひょっとすると医師である兄に電話をしたかもしれない。そうだ、兄にも電話をしておくべきだった。
 地下鉄の駅がある交差点で信号待ちになった。急ぎ足で交差点を横切っていく人たちの間に、酔客のゆっくりとした足どりも目につく。おみやげらしい包みを持った人や、犬を連れた人も歩いていく。客待ちのタクシーが占領している左端の車線のむこうにタコ焼きの屋台が見えた。世間は普通の一日だった。
 もし救急車を呼んでいれば、お隣の奥さんが事情を知っているだろう。ぼくの車のエンジン音を聞きつけただけで家から飛び出してきて、行き先の病院を教えてくれるに違いない。それが目印だな。そうやって話をきけば車を降りずにすぐに病院に向かえるかもしれない。……待てよ、一度家に上がって戸締まりや火の始末を確認した方がいいか。書き置きもあるかもしれないし。それに何か持っていく物もあるかもしれない。そういえば犬も興奮したことだろう…… もし、救急車を呼んだりしていれば、だが。

 夜の道路は速かった。ノンストップで踏切を通過するとそのままで大きな交差点も通過。幹線道路から入ると、あとは信号のある小さな交差点を一つ過ぎれば着いたも同じだ。あたりはいつもどおり静かだった。
 最後の信号を通過して一つ深呼吸をすると、家が見えてきた。
 二階の部屋にはあかりが点いていた。ああ、あかりの点いた部屋とはなんと暖かい感じがするものなんだろう! 下の階も明るい。ということは中に居るんだろうか? ぼくは家の前に車を停めるため、少し通り過ぎてからギアをバックに入れた。お隣の奥さんは表には出てこないようだった。ほっとする思いで車をバックさせる。すると、不意にお隣の家のドアが開いて、奥さんが出てきた。やっぱりだと思ったぼくはブレーキを踏み、緊張して彼女の様子を窺った。自分の心臓の鼓動が聞こえるようだ。だが、彼女は玄関脇に置いたビールケースのあたりでうつむいたまま何かしていたかと思うと、そのままこちらを見ようともせずにまた家の中に戻ってしまった。
 その時、ぼくの家のドアが開いた。
 中から出てきたのは妻だった。窓を開けながら車をさらにバックさせて家の前に停め、窓から顔を出すようにして訊いた。
「おふくろは?」
「おかえりー、おかあさん居てはるよ」
 妻は笑顔だった。よかったー!
「大丈夫か?」
「うん」
 エンジンを切り、車を降りた。
「何回か電話したけど、誰も出んかったんや」
「そうやねん。おかあさん、子機の方で電話とりはるんやけど、親機の方がそのまま鳴ってていっこも通じへんかってん」
「へえ…… なんやそれ。なんでやろな」
 母親が玄関で待っていた。目のあたりに疲労がはっきり出ている。だが、予想以上に元気そうだった。もっとも最悪に近いものを予想していたわけなのだが。
 結局電話は、今か今かとかかってくるのを待っていたために、二階にある親機がピッとなったその瞬間に子機の通話ボタンを押していたらしい。結果的に外線が子機に着信するまでのタイムラグのあいだに、子機を話し中の状態にしていたようだった。あんな電話、好かん、と母親が口をとがらせるようにして何度も言っていた。
「そやけど、ほんまに大したことやのうてよかったなぁ。機械もいけるんやろ?」
「そうやな。端のやつはだいぶ水かぶってるけど、シートかぶせてくれてるし、まぁいけるやろ。床が水浸しやから荷物だけ上にあげてきたけど、中でビニールにはいってるからだいたいは大丈夫と思う」
「よかったなぁ…… もうしゃあないから、お父ちゃんにお祈りしててんで」
「うん。線香の匂いがしてるなぁて思ってた。けど、掃除はちょっと大変やで。二、三日は停電みたいやし」
「掃除ぐらいやったら燃えるよりええわ」
「暑いでー、きっと。まぁ、明日一回いってからの話やな」
 三人で食卓についた。床に敷いたタオルの上には、まったくいつもと同じ様子で犬のドンが寝そべっていた。眠そうな目が“帰ってきたん?”と言っている。頭を撫でると気持ちよさそうに目を閉じた。
「ご飯は? 二人とももう食べた?」
「うん」
 ニコニコしながら妻が答えた。
「だってな、もし行かなあかんかったらしっかり食べといた方がええやろ?」
 そうかもしれない。オロオロするよりはその方が母親も落ち着けただろう。
「そうや、先にちょっとトイレ行って来るわ」
 そう言うと、ぼくは席を立った。
 用を済ませると母親の部屋に入り、仏壇の前に座って心の中で親父に話しかけた。
――びっくりしたけど、なんとか大丈夫やったわ。まぁ安心してください。機械も無事やったから。
 ロウソクの炎を見つめながら、しばらく、「火の用心」ばかり口うるさかった親父が生きていたらどんなだっただろうと考える。だがあまり想像がつかなかった。今日のようなことは体験せずにすめばそのほうがいいのだ。親父は火事どころではない、戦争の空襲を体験した世代だ。「火の用心」にうるさくて当然だろうと今は素直に思えた。そして、これからはぼくがうるさくなるにちがいない。体験してみないとわからないことはたくさんあるものだ。
 立ち上がって、静かに部屋を出ようとした。
 ……おっとっと。
 引き返すと、もう一度仏壇の前に座った。ロウソクの炎がぼくのおこした風で揺れている。放っておいてもすぐに消えてしまう炎。だが今夜だけは、たとえひとときでも誰もいない部屋で火をつけておく気にはなれなかった。フッと一息する。乱れたあと、線を引いたように残った一筋の煙が、やがて空気と同化して消えていった。(おわり)



〜 1994年6月8日のできごと 〜


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