『幼稚園の選び方』
▲子どもを取り巻く状況▼
●あそびにくさの認識
今の子どもを取り巻く状況にはどのような問題があるだろうか。もちろんいじめや不登校などの話題はイヤでも目に入ってくるわけだが、わたしが親になって最初に、かつ切実に認識したのはあそび環境の劣悪さだった。わたしが子どものころ(1960年代後半)とは別の世界になっていると言えるほどの凄まじい変化で、すでに子どものあそびそのものが簡単には成立しなくなっていたのだ。あそびにくいことこの上ない状況だったのである。あくまでも地元(大阪市南部)の生活圏の話ではあるが、公園などのあそびのスペースがあっても、行き帰りの道は車で危ないし、子どもを狙う犯罪も増えているので大人による監視が不可欠になっている。子どもが小さく親がついてやれるあいだはそのようにして公園でも過ごせるが、幼稚園にいくようになると運動量も増え、活動時間も長くなるためそれも難しくなる。下の子がいるとなおさらで、上の子が幼稚園から帰ってあらためて外へ出たいと言ってもなかなかかなえてやれないのが現実だった。
こういったあそび環境の実状と、教育の崩壊と言われるような諸問題とをどうとらえていくかが子どもの現状を理解するための鍵になるように思う。なぜなら、たとえば学力低下といった問題は、その対策の立て方によってはあそび環境の悪化をさらに促進しかねない面があるからだ。あそび環境が悪化していく一方でも子どもの成長に差し支えなければいいが、とてもそうとは思えない。まずそのあたりについて考えてみる必要があるだろう。
●あそび環境の現状
今の時代の子どものあそび環境が豊かではないということには疑問の余地はないと思う。ある程度の年齢以上の人が危機感さえ覚える状況だとしても、基本的には想像のつく範囲だろう。不勉強で、そのあたりをデータ的にわかりやすく検証している本を知らないのだが、手に入りやすいものとして「子どもとあそび(仙田満/岩波新書)」は好著だと思う。同書の中から一つあげておくと、たとえば秘密基地の話がある。宮崎駿の「となりのトトロ」でもセリフにちらっと出てくるけれど、子どもだけの秘密基地や「ドラえもん」に出てくるような大きな土管など、大人が注意を払わない空間は昔はたくさんあったものだった。わたし自身も十歳ぐらいのころに空き地で廃材を使って小屋を作り、友だちとそこに籠もってあそんでいたのを憶えている。そうして憶えているということ自体、わたしにとっては大切な空間だったのだろう。それは同書で「大人から干渉されない空間」と呼ばれているのだが、1975年ごろの調査でそういう空間を持っている子どもが十人に一人となり、横浜での1989年の調査では0だったとある。
他にも0になったものというと、身の回りでは空き地だろうか。実際には0ではないが、あっても網や柵がめぐらされていて子どもの侵入を許さない。原っぱも0に近い。
そういった中でうちの子の場合は、向かいが大きなマンションなのでその玄関スペースがあそび場所になっている。そこと、同じマンションの一角に設けられたすべり台のあるスペースだ。そこまでが小学二年生の現在、親がついていなくても友だちとあそぶことのできるぎりぎりの範囲だ。ただし玄関スペースはいつ苦情が出るかわからないし、実際に「あそび場所ではない」という張り紙がされたこともある。そしてすべり台スペースのほうは植え込みのスペースを兼ねているため、地面はすべり台を取り巻くような形になっていて、そこをぐるぐる回るようなあそびしかできない。また水関係の設備があるらしく、夏場は非常に蚊が多い。
三ブロック先に児童公園が一カ所、さらに1キロほど離れたところに大きな公園があるが、どちらも子どもだけでは行かせられない。そんなところだ。よそと比べてどうなのかはよくわからないが、少なくとも小学校の校区内は似たようなものだし、近隣の小学校でも大差はないと思う。
では自然環境の豊かなところだとまたちがうのかというと、どうもそうとも限らないらしい。上の子の友だちに大阪から山陰地方に越した人がいるけれど、たしかに自然環境的にはいいのだが一緒にあそぶ相手がいなくて困るということだった。人口が少ないこともあるのだろうが、どうも子どもを外であそばせるという雰囲気自体がなく、特定の友だちとの室内あそびが中心になるということだった。そうなのかと思って注意していると、野山から子どもが消えたという新聞記事などもちょいちょいと目にとまった。
●あそびの持つ意味
子どもにとってのあそびは、言葉はあそびであっても大人のそれとは本質的なちがいがある。特に就学前ぐらいまでは子どもは何をやってもあそびと言われるわけで、実質的にあそびは子どもにとっての生活そのものだと言える。当然、重要な成長の場にもなる。
では、そのあそびが十分でなかった場合にどういうことが起こるかだが、これをあそびという言葉を使って考えるとなんとなくわかりにくい。たとえば運動という言葉に置き換えてみると、運動が十分でなければ運動不足や発育不良になるだろう。友だち関係と考えれば、人と接するのが苦手になったり人間関係を調整する力が不足しそうだ。自然と接する機会だととらえれば、生き物に対する愛情や生命の尊厳を感じる機会を逃したままで育つのかもしれない。
そういった不足は代替手段によって補うことができるという考え方もあるかもしれない。運動不足にならないように水泳教室やサッカー教室に通う子どもは多いし、そこにはそこの友だち関係もある。自然に接するのであればボーイスカウトなどに参加するほうが効率がいいかもしれない。
だがそういったスポーツ教室などはあそび環境が今よりも豊かだった時代から存在していたわけで、その当時からあそびはあそびとしてあり、やはり成長の場としても機能していたにちがいない。
たとえば野球をするときも、あそびなら人数やメンバーに応じてルールを変えたり考えたりできる。その日友だちが連れてきた小さな弟を特別ルールで仲間に入れてやったり、途中で友だちが帰ったら四つのベースを三つに減らしてつづけたりもできるわけだ。そういった臨機応変な工夫は、生きていくための力としても大いに役に立ちそうだが、スポーツとして取り組む場合の野球はこういったことまでカバーしにくいのではないだろうか。代替手段によってあそびの補いがつくという考え方には注意が要ると思う。
先に述べた秘密基地の話題でも、「大人から干渉されない空間」こそが子どもの自立心を育てる場であるとすれば、秘密の場所を子どもが失ってしまうことは、自立心の欠落につながっていくことにもなる。だからといって代替的に大人の管理のもとに「基地あそび」のようなものを提供をしたとしても、大人になってからも憶えているような秘密の場所にはなかなかならないだろう。
わたしが子どものあそびに対して描いているイメージに、自分が生きているということに対して自由に、かつ積極的にアプローチし、心ゆくまでの充実感を得る行為というのがある。どろんこあそびでも鬼ごっこでも、あそびというそのときの自分が一番やりたいことに心ゆくまで熱中して、堪能すること。それはそのときの自分にとって生きている理由にさえなりえる充実した瞬間だと思うのだ。そんな充実感を得るのは楽しいことだと思う。そして生きることは楽しいことだという大前提が子どもの心にしっかりと根付くのは、それ以後の人生に対して前向きに取り組む力になっていくのではないだろうか。
もちろんそういう力が身に付くのはあそびの場に限ったことではないだろう。しかしあそびが楽しいものである以上、または楽しいからあそびである以上、子どもにとって生きることの楽しさを知るための最有力の手段であることは間違いない。
だからそんなあそびが不足すると、最終的には生きることを楽しいことだと認識しないまま育つ子どもが増えそうな気がするのだが……それは今のところ想像でしかない。
▲はじめに▼
▲子どもを取り巻く状況▼(このファイル)
▲学校とのあいだで▼
▲入園と転園▼
▲おわりに▼
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